黄昏デザイン研究所




秋バラ アウグスタ・ルイーゼ

ハイブリッド・ティ
大輪/強香/四季咲き/心地よいフルーツ香を持ちます。


秋バラ シャンテローゼ・ミサト

深い緑の葉にグラデーションがかったピンクの花がよく映え、直立性ですっきりとした株立ち。病気にも強く育てやすいのが特長です。また、スパイシーな香りは、第7回ぎふ国際ローズコンテストベストフレグランス賞を受賞しています。花名は“バラ色の歌ミサト”の意で、歌手の渡辺美里さんに捧げられたバラ。

親民観月について

2022年6月4日



 
清良記30巻。全体は軍記物語であるが、第7巻が《親民鑑月集》と題されて、清良の農政上の諮問に対して松浦宗案が単に農政の心得だけでなく、土壌、作物の品種・栽培、肥料、農業労働等について詳細な意見を述べているところから、経済史・農業史の立場から《清良記》といえば、この巻をさし、かつ日本最古の農書として紹介されていた。

土居清良

天文15年(1546)〜寛永6年3月24日(1629)
戦国から江戸時代初期にかけての伊予国(愛媛県)の領主。死後,村民の手により清良神社が建てられ,今なお篤く敬われている。
(山内譲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典に親民鑑月集(清良記巻七)の研究 全二冊. 著者 島正三編; 出版社 博文社; 刊行年 昭41年

愛媛県宇和島市三間町は古くから良米が取れる産地として知られ、農業の盛んな地域でした。周囲を山でかこまれたこの三間盆地という狭い地域で、周辺の地域とは比べ物にならないほど、量も品質も高い米が取れる農業の神に祝福された土地でありました。
三間町の戦国時代の領主「土居清良」は知勇兼備の名将で周辺の戦国大名の軍勢を幾度も追い払い三間を守り抜いた戦国武将でした。

土居清良は戦国時代、大森城を本拠とした領主で、天文15年(1546)三間町に生まれた15歳の頃、豊後の大伴氏の攻略で一族滅亡の果てに土佐に落ち延び、一条氏のもとに身を寄せた。
後に17歳で大森城に復帰し、19歳で一条氏の軍勢を追い返し、自立する。その後も長曽我部氏をはじめとする土佐勢の相次ぐ侵略は20年もの間繰り返されたが、清良は西園寺家の武将として、土佐勢を駆啄し、領土を守りぬいてきた。その武名は中国地方にまでとどろいたといわれている。

しかし、小さい国、弱い武将は、容赦なく討ち滅ぼされるきびしい戦国の世です。清良は、どうすれば外敵から一族を守り、三間の里を平和に治めていかれるかということに、常に最大の苦心をはらいました。
「これからの戦いに勝つためには、まず鉄砲を取り入れることだ。」と、考えました。鉄砲かじを呼び寄せ、従来のものよりははるかに性能の高い新型の鉄砲を造り上げました。
そして、さらに大切なことは、農業を勧め国を富ますことにあると考え、先代からの重臣で篤農家、松浦宗案をまねき、農業についていろいろたずねました。宗案は、日本ではじめての農書を著したほどの人です。なにかと新しい農法を進言しました。清良は、宗案の豊かな知識や体験に感心し、さらに研究をさせました。

農民の願いはむなしく、秋の収穫時をねらっては、土佐の一条軍がたびたび三間の里に押しかけ、稲を奪い取っていました。ある年のことです。一条軍はいつものように豊かに実った稲を奪い取ろうと秋をねらっておしかけて来たのです。しかし、そのときはすでに三間の里は稲刈りが終わっていました。こんなことはないとうろつくところを土居軍の精鋭によってひとたまりもなく追い払われてしまいました。これは、宗案の研究によって、領民たちが早稲苗を植え、収穫の時期を早めたからです。
稲作の略奪に頭をいためていた清良も大いに喜び、ますます農業を勧めることに力を入れました。
百姓はいうまでもなく、武士たちも朝夕は武術の訓練をし、昼間は百姓すがたで農業にいそしみました。このように、武士も百姓も一体となって宗案の指導のもとに農耕に精を出したので、三間の里はたいへん豊かになりました。

その年の秋は、ものすごい風雨に見まわれました。さすがの宗案もこれだけは防ぎようがありません。三間川のどろ水が一面海となって稲をしずめ、米は一粒もとれませんでした。
清良は米倉の米を全部出して領民に分け与えよ。」と、家臣に命じました。「それはなりません。いくさに備えた兵糧米がなくなってはたいへんです。」家臣はとめました。しかし、清良は声を大にして言いました。「いや、領民があるからこそ、この土居家もあるのだ。かまわぬ、すべての米を出せ。」そばで宗案もにっこりうなずいていました。
翌年は豊作でした。領民たちはきそって米俵を清良の米倉に運びました。また、清良は、毎年秋の取り入れが終わった頃、すべての領民を城内に招いて、ごちそうと酒をふるまいました。君主と領民の差別もなく、武士と百姓の区別もなく、すべてがうちとけ一体となっていました。城内は夜が更けるまで喜びの声がはずんでいました。
このように、領民をおもうよい君主の治政によって三間の里には、あたたかい歳月が流れました。

強敵の侵入
長曽我部元親という強力な武将が大軍を率いて三間の里に攻め寄せて来ました。
元親の軍は、手はじめに岡本城をねらいました。夜を待って密かに数十の奇襲隊をよりすぐって城の後ろにまわらせました。奇襲隊は暗闇のなか、つたを伝わり、岩をよじ登って城の中に入り込み、一気に攻め落とされました。物見の兵によって城落城の知らせが清良に届きました。
「それで、元親の本隊はどうした。」物見の兵にたずねました。「はっ、三間川のずっと下流におります。」清良は立ち上がりました。
「よし、今だ。夜が明けぬうちに岡本城を取り戻すのじゃ。全員出陣せよ。鉄砲隊は川原へ向かえ。決して音を立てるなよ。」
土地にくわしい土居軍は、やみにまぎれて、岡本城に迫りました。勝利によっていた元親軍が今度はあわてていました。祝い酒にしびれた元親の兵はまたたく間にけちらされました。
朝もやがはれた岡本城の本丸には、清良の命によって長曽我部の旗印が大きくふられていました。「奇襲隊が岡本城を落としたぞ。」「さあ城にはいろう。」
戦う用意もわすれた元親の本隊は城へ向かって、川原にきたときです。数百ちょうの鉄砲がごう音と共にいっせいに火を吹きました。2段、3段の構えで訓練された鉄砲隊は元親軍をうちまくりました。この思いもよらぬ大敗北で多くの将兵を失った元親軍はあたふたと土佐に逃げていきました。
元親は、これまでに十数回三間の里に攻めてきました。土居軍との合戦も30回を数えましたが、一度も勝つことができず、多くの将兵を討たれていました。
岡本城の合戦で大敗した元親は、清良の力に恐れてこれから後三間の地には攻めてきませんでした。

太閤検地とその後
長い戦いの末天下を治めた豊臣秀吉は、全国に役人を送り「太閤検地」を行い田畑の調査をしました、そのとき三間を訪れた役人はおどろきの声を上げたという。
「この三間は日本で一番米のとれる地域に違いない!」
それから幾年か過ぎ、戦乱の世に群がる外敵を防いで、郷土の平和を守り、領民をいつくしんだ清良は、その後も百姓とともにくらしながら寛永6年(1629)84歳でこの世を去りました。
村人は社を建ててその遺徳をしのびました。三間町土居中にある清良さま(清良神社)がそれです。
秋晴れの一日境内に立つと、黄金色の三間平野の彼方に大森城趾が見え、老松に吹く風はその昔を物語っているようです。

農業と時代背景
三間地方ではふるくから、農業が盛んで、弥生時代には稲作も始まっている。応仁の乱が起こると、平穏な三間地方も戦場になり、周辺列強国が豊な三間の地を狙い幾度も侵入し、実ったばかりの稲穂を刈り取られ、狩り働きの対象になり、農民達は大変苦しんだ、この中で三間城主土居清良が善政を敷き、そのもとで松浦宗案が「親民観月集」を記し農業振興に貢献した。

参考・引用
「清良記(松浦郁郎校訂)」「土のさむらい」 岡本文良 くもん出版参考・引用
出典・三間町特別栽培米生産組合・引用