黄昏デザイン研究所




秋バラ アウグスタ・ルイーゼ

ハイブリッド・ティ
大輪/強香/四季咲き/心地よいフルーツ香を持ちます。


秋バラ シャンテローゼ・ミサト

深い緑の葉にグラデーションがかったピンクの花がよく映え、直立性ですっきりとした株立ち。病気にも強く育てやすいのが特長です。また、スパイシーな香りは、第7回ぎふ国際ローズコンテストベストフレグランス賞を受賞しています。花名は“バラ色の歌ミサト”の意で、歌手の渡辺美里さんに捧げられたバラ。

山中四郎について


2022年6月2日


山中四郎遺稿集
著者山中四郎遺稿集刊行会 編
著者標目山中, 四郎, ヤマナカ,シロウ、1910-1948
出版地(国名コード)JP
出版地東京
出版社山中四郎遺稿集刊行会
出版年月日等1977.5
大きさ、容量等314p 肖像 ; 19cm
注記製作: 中央公論事業出版 (東京)
注記山中四郎略年譜: p.306〜309
JP番号77012967
出版年(W3CDTF)1977

下記の画像は山中四郎・山中壽子ご夫妻の写真です。和泉伝蔵氏撮影です。ご遺族又は、関係者をご存じの方は是非ともご連絡願います。このご夫婦を世間に顕彰したく存じます。


 山中四郎とは、戦後「統計法」法案作成業務に担当課長として中心的に関与してきた人物としてわずかに知られている。

 その経歴は、満州鉄道の現業職員の父のもと満洲帝国で育ち、奨学金制度により東京帝国大学経済学部を卒業し、満州鉄道株式会社、興亜院、大東亜省を経て内閣調査局に在籍中出張先の広島で被爆、原爆症と闘いながら統計法法案作成に尽力、昭和22年法案公布翌年に38歳で白血病で死去、なお、二人の娘則子と康子は生後まもなく病死、妻山中壽子(旧姓 池田)は、夫の看病の最中昭和21年に病死している。

 優秀で努力家であったが運の薄い人としか見えない。しかし、知人たちによって、没後30年も経って遺稿集が出版されるとは、よほどの人徳があったのだろう、包帯でぐるぐる巻きになって執務に励んでいた様子が伝えられている。

 この遺稿集には妻の山中壽子についての記述が多くある。山中夫妻の細やかな愛情生活や、壽子の文章なども収められている。
 山中夫妻の7年間の結婚生活のうち、健康で幸福な生活は2年足らずであった。残り5年は妻の病気と二人の子供の死と夫の原爆症に苦しめられた日々である。

 壽子は、昭和20年3月29日に特攻隊の遺文を読み「斯ういふ人こそ命の使い方を知っているというべきである。」と述べている。

四郎は、チェホフの人口調査に言及していた。

 このような二人が偶然夫婦になる確率が信じられない。

以下は、本書が出版されるはずだった昭和24年に大内兵衛氏がものした追悼文である。彼の業績について簡潔に遺漏なく語っている。



私が山中君を知ったのは、たしか昭和二十一年の春頃であったかと思う。当時の吉田内閣は終戦直後の混乱のうちにあって、その経済政策の建直しに大義であったので、その施策の材料となるような統計資料を求めていた。また政府は占領軍からも戦時戦後の国力についての統計資料を求められていた。だが、当時それに答えるような統計資料がなかったことはいうまでもない。そこで内閣審議室の、橋井君と山中君とが統計資料を整備することを命ぜられた。
 ちょうどその頃私も吉田さんから戦後の統計制度の整備のことを考えてくれとの依頼を受けた。私が山中君と会うようになったのはこの関係からであった。
 昭和二十一年十二月二十八日には統計委員会が正式に発足した。翌二十二年五月一日には統計法が実施された。このことは戦後におけるわが国の行政における○時代的な出来事であったが、此等の制度の準備の仕事の大部分は山中君がしてくれたのである。このために、山中君は暖房もない寒い役所の部屋で、おそくまで働いた。そしてそこで夜明かししたことさえ再三度に止まらなかったようである。
 新しい統計制度が出来ると山中君はその事務所の総務課長となった。そのとき統計委員会の運営や統計法の適用にはいろいろの問題が出て来て、山中君の仕事はさらに多忙を加えた。山中君は事務局長を助けてさらにその奮闘をつづけた。今日わが国の統計制度の基礎が出来たとすれば、これは誰の力でもなく、第一に山中君の功績だといってよい。
 新しいわが統計制度は明治維新以来の歴史において画期的なものである。というのは、明治維新と共に、官僚機構の中にヨーロッパ流の統計制度が持ち込まれ、また、日本が統計のために擁した努力は大きかったのでるが、この数十年においてはその停滞または退歩は甚だしかったからである。しかし統計委員会が出来て従来の統計の改革をしようとして見ると、関係官僚との間に委員会が多くの摩擦を起こすのは当然であった。そのときそれをうまく処理するには勇気と誠実とがなければなかなかった。そしてまた各省の統計の歴史について具体的な知識を持つことも必要であった。このような理由から山中君は役所の事務のひまひまに明治以来の統計制度の文献を研究した。そしてまた西欧諸国の統計制度の歴史をも研究した。かかる研究のうちに、山中君が杉亨二、呉文聰両氏の業績に大いに共鳴するものがあったのは偶然でない。けだし、両氏こそこの道における偉人の名に値するからである。そして関係○と困難な問題が起こるごとに、山中君をはげましたものは、統計制度のために情熱を傾けて戦った両氏の面影であった。こういう山中くんであったにも関わらず、彼は昭和二十三年十二月十五日東大病院で亡くなった。曾て広島の原子バクダンでやられた古い傷がわざわいして、かねてあまり強くなかった彼を倒したということであった。むろん勉強がすぎたからである。誰が哀悼に耐えんやである。
 今度統計委員会事務局の河合君が山中君の書いていた原稿を整理し、更に若干の部分を補充して一冊にまとめ、これを上梓することにした。原稿を見ると、内外の統計制度の歴史をうまくまとめて書いてあるだけでなく、戦後の統計制度についてその説明がなかなかよくできている。学問に対する情熱が全面にあふれ、また新制度を生み出す渦中にあって身を挺して戦った意気が文字のうちに残っている。
 山中君逝いてまさに一年、私はこの遺稿が世に出ることをよろこぶ。ただに同君の記念のためのみではない。この書が日本の統計に関心をもつ人のためによい指導書であるからである。
昭和二十四年十一月
  統計委員会の新しいオフィスにて
大内 兵衛