2022年6月2日 |
私も原水爆は好きではありません。実際のところ労働組合で原水爆賛成を謳うところは寡聞にして存じません。 原水爆反対運動にはもちろん参加したことがあります。参加する多くの人は組合関係などなのですが、中には自費で参加した人もいます。その組合関係ではない部外者である主婦が言った言葉が忘れられません。「ここには異論は言えない雰囲気があります。」もちろん子供のために核の無い世界を目指すため、高価な参加費を払って来てみたら、全体主義的な様子で驚いたのでしょう。 戦争が終わってしばらくは、本当に二度とこのようなことは嫌だという意見が全てでした、とにかく原爆はもうごめんだ。つまり原爆を自分には使わないでほしいという人が大半です。でも、日本でも早く原爆を作って戦争に勝ちたいと思っていた人も多くいました。更に被爆で倒れた人で復讐を願っていた人も多いのでした。 有名なキューバの革命家のゲバラがヒロシマを訪れたときの言葉が忘れられません。「こんな目にあって黙っているのか。」原水爆反対には、自分が被爆するのは嫌だが、敵が被爆するのは容認できるという意見もありうるでしょう。 もちろん誰も被爆してはならない、ひいては原水爆そのものを廃止すべきという考え方がこの原水爆反対運動の主流となっております。しかし、過去には、社会主義国家の核兵器は自衛の為容認するが、資本主義国家の核兵器は侵略のためだから反対するといった立場の人が主流を占めたことがあります。それもソビエト派と中国派に分かれて主導権争いをして泥仕合となり、心ある人々をあきれさせました。 核戦争を卑近な例で例えるのは本来間違っているのですが、例えば、ピストルを突き付けた相手に、丸腰で銃器廃止運動をしても聞いてもらえるかどうか怪しいものです。 こちらも銃を持っていれば危ないから一緒に捨てようと説得もできるかもしれません。 もし、こちらが大砲を持っていて銃を持っている相手に危ない兵器は共に捨てましょうと言えば聞いてくれる可能性はありそうです。 しかし、核武装とはとんでもなく経費がかかるシステムです、それに万一核戦争になれば大変な被害を関係のない国々にまで及ぼすでしょう。原水爆は廃止しかないのですが、自国の核武装の可否は自由に議論したうえで反対運動を行うべきでしょう。銃も道具なら、原爆も道具と思っている人は多いのです。 戦うものは必ず負けると老子もおっしゃっております。 しかし、関係ない話ですが、ゲバラは素敵です。女性ならシモーヌ・ヴェイユ。内からあふれ出る美しさと思います。永遠の革命家ですので彼らには黄昏は無縁です。いつまでも青春の面影で原水爆を反対していてくれるでしょうか。 |
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