黄昏デザイン研究所

捨て子統計について


2022年6月2日



 最近、実の子供を虐待死させる事件の報道をよく目にします。そんなことをするのならいっそ捨ててしまった方がまだよいのではないかと思い、捨て子のことを調べてみました。江戸中期から明治前期までの管見を記します。

 最初に大衆娯楽の雄、映画に描かれた不幸な人々への庶民のまなざしについて簡単に記します。

 『狐の呉れた赤ん坊』1945年(昭和20年)監督・脚本は丸根賛太郎、主演阪東妻三郎主演に捨て子を拾った川越人足が、貧しいながら懸命に世話をする姿が描かれており、捨て子に対する当時の庶民の感情が理解できるように思います。

 捨て子と似たところのある行旅死亡人についてですが、これは統計が完備しております。『沓掛時次郎』(辻吉郎監督、大河内伝次郎主演、日活、1929年)に、主人公が、行き倒れ(=行旅死亡人)の鳥追い女(旅芸人)の三味線を拾い上げて自らが旅芸人となって放浪していく姿がさりげなく描かれておりますが、当時の観客にとっては当たり前のことだったのでしょう。道端にある死人に対する感覚が、現在とはかなり異なっているように思います。上記2本の映画は設定舞台が江戸時代ですが、1945年当時は、江戸時代生まれの老人が沢山いたのです。私たちが戦争中を古老に聞くような感じでしょうか。


 有名な『野ざらし紀行』(のざらしきこう)は、江戸時代中期の紀行文です。松尾芭蕉第1作目の紀行作品の中に一般に’富士川の捨て子’といわれるくだりがあり、河原に捨てられて泣いていた2歳児ほどの捨て子を、芭蕉はなぜ助けもせずに通りすぎて行ったのかと、いう議論が昔からかまびすしいです。

 少なくとも江戸中期以降は、捨て子に対する救恤的な措置が、幕府及び明治政府によって行われていたようです。また、民間においても相互扶助の精神により、いたずらに見殺しにはしていなかったように思います。


 
 貞享1年(1684年)8月江戸深川出発から、翌年4月江戸に戻るまでの往路東海道、復路中山道・甲州街道経由江戸帰着までの2千キロの大旅行であったのでした。
後の「奥の細道」の真実性が同行した門人の河合曾良の日記により確認できるため、この『野ざらし紀行』の記述もある程度の信頼性があるものと類推いたします。
(原文)
富士川のほとりを行に、三つ 計なる捨子の、哀氣に泣有。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露計の命待まと、捨置けむ、小萩がもとの秋の風、 こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、

猿を聞人捨子に秋の風いかに
(さるをきくひと すてごにあきの かぜいかに)

 いかにぞや、汝ちゝに悪まれたる、母にうとまれたるか。 ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなきなけ。


紙本淡彩野ざらし紀行図〈与謝蕪村筆/安永七年(1778年)五月の年記がある/六曲屏風〉
絵画 / 江戸 / 関東

与謝蕪村 江戸/1778 一隻
重文指定年月日:19600609
個人蔵の為画像はありません。過去の写真乾板のため不鮮明です。
国宝・重要文化財(美術品)




江戸の捨て子たち  その肖像  沢山 美果子 著  吉川弘文館 2008/4/1
 
江戸時代の捨て子は、どのような存在だったのか。どこに、どのように捨てられ、そして拾われたのか。ともに添えられたモノや着衣が意味するもの、手紙に託した親の思い、捨てる男と女、捨て子を貰う人々の思惑、江戸にもあった赤ちゃんポスト構想。そこから見えてくる江戸の捨て子たちの実像と、捨て子が生み出される社会的背景を活々と描く。


上記図書には、江戸時代から明治初期までの捨て子の事例を沢山列記しており、生活のためやむを得ず子を捨てた母親の気持ちが惻々として迫ってきます。

統計集誌 出版社東京統計協会出版 年月日等1882-01 巻次(初號)
に東京の捨て子についての記述があり、寛政期より幕末まで、町奉行所で統計を取っていたことが分かります。この寛政6年(1794年)から9年の数字と、明治6年(1873年)から9年の警察表の捨子(当時は捨て子を捨子と表記していた。)の数字を比較し、解説を付したのは、「増田賛 1839−1902 明治時代の司法官。天保(てんぽう)10年生まれ。安井息軒(そっけん)らに儒学をまなぶ。維新後,栃木,静岡などの判事を歴任。西村茂樹(しげき)らと教化団体の修身学舎(のちの日本弘道会)をおこした。明治35年5月1日死去。64歳。越中(富山県)出身。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)」です。

 その後捨て子の数値は、内務省戸籍局で統計表を公表しております(ここでは棄子と表記していた。)。

また、太政官統計院においても帝国統計年鑑を刊行するにあたり、地方より捨て子の数を申告させようとしていた経緯が、「統計年鑑様式 第一 太政官統計院 1882」に見ることができますが、地方よりの報告数値の原本は下記の通り市区町村単位で、県がまとめて報告しておりました。
 


明治政府も江戸幕府に倣って、捨て子への対処を重要なこととして考えていたことが分かります。

この捨てられた子供たちはどうなったのでしょうか、幸福な未来が開けたのでしょうか、とても気になることですが、統計数字には窺い知れぬことです。